目次
生誕
スポーツ応用力学の素は、1966年長野県松本市で生まれ、中学3年までここで過ごした。住みやすい地方都市だが、当時は冬になると−15度が当たり前だった。
船乗りから陸に上がっていくつかの会社を経営しながら「病んでいる人を良くすること」に大きな興味を持ち続けていた父親は、とにかく一般人からかけ離れた人だった。信三の幼少期、兄は冬のソリ遊びを引き金に半身不随になり入院していた(後に半身不随の原因は、後に父親の圧力からの逃避とわかり治癒)。
その頃生活には波があり「肉屋で売ってる一番高い牛肉を買ってこい」と使いに出される日々があったかと思うと、腹が減ったと訴えると「何か食いたかったら野草を取ってこい」と言われて暮らす日々も経験した。高級牛肉を食べていた頃、家中の家電はアメリカ製の大型家電で、ピアノが2台、小型バイク十数台、車が数台があり、毎夜多くの客が家を訪れていたが、野草を食べていた頃は、それがどうだったか記憶に無い。
学校では、小学校4年生までは「ガキ大将教育」ともいえる、「リーダーを決めてクラスをまとめる方式」の教育方針をとっている先生からリーダーに抜擢されており、「理解の早い子はどんどん進み、遅れのある子には先生がしっかり付いて教える」という方針のもと、小学4年生にして6年生の教科書を終わっていたほどだったが、5年生になって「全員均一教育」を強く推し進める担任に替わったとたん、「お前みたいなヤツがいるからダメなんだ」と、全員均一教育からハミ出た吹き出物のように扱われ、生きる意味を失って空っぽになった。
そんなある夜、刑事コロンボと同じトレンチコートを纏った刑事が訪ねてきた。「昨日、息子さんはどこにいましたか?」質問はそれだけだった。翌朝登校すると、友人たちが集まって話しているのを聞いて驚いた。「担任の先生、放火されたらしいよ」 担任に疑われたということが、胸に錆びた剣をねじ込まれているような痛みとしていつまでも残ることになった。
それから中学2年生までは何を目標にするでも無く、なんとなく日々を過ごしていた。まだ分別の付かない年齢だったから、多少悪く傾くこともあったが、毎日学校に通い、成績は中くらい、普通に過ごし、友達もいた。その間、父親は名古屋の学校に通っていたこともあり在宅することは少なかったが、なぜか「だ・か・ら、お前はダメなんだ」だと言われた記憶が残っていて、その言葉のダメージが大きかったと後々痛感することになる。
戸塚ヨットスクールで覚醒
「おい!信三!」
「はい!」
中二の冬、父親に呼ばれた。
コンコン。
「大人の部屋(両親の部屋をそう呼んでいた)」をノックする。
入室許可の声がすると、正座して父親の話を聞いた(我が家はこのスタイルだった)。
「お前、ヨット乗りたいか?」
「ヨットって、あの、小舟に三角の帆がついた・・・?」
ここは、本州中央の地。どの方向に向かっても海は遠い。海は生まれてから1〜2度しか見たことがなかったから、イメージできなかった。
「見てみろ!」
父親が指さしたテレビは、少年が罵声を浴びせられてヨットに乗っている映像。悪名高き、戸塚ヨットスクールの特集番組だった。
「ちょっと厳しいぞ!」と父に言われたが、ボクにとってそれはどうでも良いことだった。
この家の息苦しさから離れられるのであれば、厳いなんて問題にならない。しかも未体験世界にあるヨットってちょっと乗ってみたかった。
「行きます!いつからですか?」
「明日、イトーヨーカドー行って、必要なものを買ってこい」
「分かりました」
不良でも登校拒否でも無かったが、小5から中2まで4年間も精気を失っっている子供は、父から見れば情緒障害そのものだったに違いない。
後にも先にも戸塚ヨットスクールに中学生一人が自分の足で電車に乗って入校した例は他にない。情緒障害児と不良に混じっての特別合宿が始まった。
ヨットスクールの訓練は、皆さんが知っているとおりの内容で、ボコッとやられながら陸トレしたり、ヨットに乗ったり、合宿生活を送った。
初日、言われるがまま女性コーチの操船で一人乗りの小さなヨットに乗せられて、方向転換でジャブンと海に振り落とされた。それを見ていたコーチたちは全員ガハハと笑いころげた。女性コーチだけは助け上げようとしてくれたが、そのときの小馬鹿にされたような屈辱感は今でも忘れていない。
その日のうちに一人でヨットに乗せられて、と同時に、戸塚校長にこう言われた。
「お前のヨットは何で進まんのじゃ?」
「教わってもいないんだから当たり前だ」と怒りを抑えながらもがいていると、また校長が怖い顔をして近づいてきて
「お前の船はどっち向いとるんじゃ?」と言い捨てながら、気温5度で小雪が舞う中、バケツに汲んだ海水をバシャッとかけて去って行く。
次は「お前のセールはどうなってるんだ。周りを見ろ」と。
また同様に 「お前の船の傾きはどうなっとるんじゃ!」と怒鳴って 海水をぶっかけていく。
ちっとも教えてくれずに、質問ばかりが繰り返されるのに耐えながら過ごした。
それから数日後。
「ん?もしかして上手い人を見て真似しろってこと?」
そんな思いが胸に湧いた。
その日からは、一番速い人の船を見て、船の動き、操船技術、身のこなしなどを片っ端から真似していった。
戸塚校長はたまにしかヨットに乗らなかったが、たまに乗るとめっぽうスピードが早くて、いつも自分が乗っている船と同じ船なのに、こうも違うのかと愕然とした。
当然その日は校長のモノマネだ。
そんなことを繰り返すうちに少しずつヨットはスピードを増し、ひと月が過ぎた頃に行われた、YAMAHA製「かざぐるま級」の小さな選手権大会で4位になった。ヨット経験が一番浅く、ヨットを初めて見た日から1ヶ月ほどで上位に食い込めたことは誇らしかった。
言うなれば身内だけの大会だけど、その日を境にして、一回り大きなヨットにも乗船を許可されたり、認めてくれた感覚が心地よかった。ただし、そのせいで、その日以降ずっとバーベル用の円盤状のウエイトをロープでくくりつけられて、全てのトレーニングをその状態でするようにも宣告されたのはしんどかった。
45日ほどで最初の合宿を卒業し、その後1週間ずつの合宿に何度か参加した頃、スクール内で訓練生の人命が失われ戸塚宏校長は拘束された。
戸塚校長の言動には賛否両論あると思う。そりゃねーだろ!と思うことも多かったが、それでもボク個人にとっては今の自分を作ってくれるきっかけは、戸塚宏ジュニアヨットスクールの皆さんのおかげだ。
ここで「ふたつのものを見比べて、良い方のエッセンスを抽出して、もう一方に注ぎ込む」という極めてシンプルな上達の法則を叩き込んでくれたことには感謝しかない。
全国4位。そして胃を摘出
中学を卒業すると、親元を離れて全寮制の男子校、鳥羽商船高等専門学校に進んだ。ヨット部に入り17歳の時には三重県代表で国民体育大会で少年の部4位になったが、青年の部に出場していた、日本のトップが集まるの本田技研鈴鹿ヨット部の選手に「4位なんか意味がない、表彰式にでるなど恥ずかしい、帰るぞ!」と 連れ帰らされたことが強く記憶にに残っている。そのときは悶々としていたが、今は「4位だって、何位だって価値がある。大切なのは、工夫を重ねて自分を伸ばしていくことで、自分自身の可能性を信じられるようになっていくこと」と考えている。
商船学校を卒業すると一旦帰宅して父の手伝いをしながら過ごしたが、全て命令調の父との暮らしのストレスで「一二指腸潰瘍(穿孔、膵臓癒着)」になり、20歳にして胃袋を摘出した。
4月から通った整体の学校では、1年生の時は全ての教科を百戦錬磨の熟練の先生方が教えていたのに、2年生に進級して学校に行ってみると、先生全員が、昨年卒業したばかりの先生に替わってしまう体験をした。その学校が学校法人として認められていない事業を行っていたこともあり、熟練の先生に教わりたいという活動をすることになったため学校と折り合いが悪く、卒業式では、卒業式を妨害するのではないかとの憶測が流れ、若手先生が包囲するような席次になっていた寂しさがチクリと心に残っている。
このときは、小さなバイクで車を縫いながら街を疾走するのが好きで、街中とは思えない角度に傾いたバイクでコーナーを通過することが快感だった。
スポーツ指導者へのレール
整体の学校を卒業すると、鍼、灸、あん摩マッサージ指圧の国家資格を受験できる学校に進んだ。父親の意向だったが、新宿から八丁堀の学校に自転車で通う3年間は嫌いじゃなかった。同級生に甲子園投手がいたので、自分の投球下手が改善できないかと、投球を教わる日々を送ったが、結局まともに出来るようにはならなかった。
自分の投球フォームはあまりにも不器用なものだったけれど、どうしても「生まれつき不器用」というレッテルだけは受け入れることができなかった。
小学校の時に先生に宣告された「お前がいるからダメなんだ」という言葉と、父からの「だからお前はダメなんだ」を勝手にダブらせて、「自分はダメじゃない!」という思いが強くなったせいらしい。
スポーツが不器用なのはDNAのせいではない。正しいスポーツの習得システムは、DNAという呪縛を超えられる。それを見つける意地が生まれたのはこのときかもしれない。
学校を卒業して、鍼灸マッサージ師の資格を得たが、そちらには進まずに、警備会社に入った。道路で片側交互通行を誘導する警備から、建築現場のゲートでトラックの誘導、違法駐車しそうな人に一声かける違法駐車防止隊など、毎日違う現場に行くのは少し楽しかったし、専門学校に進んでから始めたスキーにハマっていたので、気楽な週払いの警備会社は冬の3ヶ月間スキー場にこもるにも最適な選択だった。
スキー教師は苗場スキーアカデミーに所属した。スキー検定一級を合格させてくれたスクールだったからというのが最大の理由だが、入ってみたら、日本で初めてワールドカップポイントを取った柏木正義氏が代表を務め、スキー技術選手権大会でずっと優勝を続けていた柏木義之氏は正義氏の長男でスクールのコーチ。しかもオリンピック4位の皆川健太郎選手を輩出したスクールだと後から知った。柏木正義氏は練習にも生活にも大変厳しいことで有名で、スクール生活はヨットスクールを凌駕するレベルの厳しいものだった。
めちゃめちゃレベルが高いコーチたちの中で、自分のスキーが下手なことを自覚しながらも、 「お前=ダメ」を払拭するために、 戸塚ヨットスクールで学んだ「比較して習得する」を繰り返して少しずつできるようになり、シーズン終盤には1級取得を目指す人への合宿指導を任されるようになった。
警備会社やスキースクールに在籍ている間も、夜は整体で小遣い稼ぎをしていて、いつかはこの腕で開業をと思っていたので、スキーシーズンが終わると、開業資金を貯めるために東京都羽村市の日野自動車で、途切れなく流れてくる自動車のボディにスプレーガンで塗料を吹きかける仕事に就いた。1週間日勤をしたら翌週は夜勤を繰り返して3ヶ月間が過ぎる頃、身支度のために鏡を見て愕然とした。
両目の黒目が陥没していたのだ。
病院で調べると、黒目が陥没したのではなく、塗料によるアレルギーで白目が膨らんでいたと分かったが、塗装は続けられないのでので組み立てラインに転属を申し出た。しかし会社からは塗装の指導員として、塗料が直接かからない場所からの新人指導を与えてもらい、退職まで塗装指導を仕事にした。
開業資金の目処がたったので、東京小金井市に、整体でスポーツパフォーマンスを上げることと、足型を採って造るインソール製作の店舗をオープンした。苗場スキーアカデミーの校長が、シーズンオフはスキーインソールを製作する第一人者だったこともあり、シエスタは、施術によってカラダのバランスをとってから、バランスの良い足形を採取してインソールを作るコンセプトで始めることにした。
インソールの仕事を拡大するために、知り合いだったフィットネスクラブの社長に紹介に行くと、世界で活躍するフィギュアスケート指導者を紹介していただいたのをきっかけに、フィギュアスケートのインソール作りと、フィギュアスケート選手に対する整体・動作指導が始まった。
依頼されてスポーツトレーナーに
小さい頃からガシャガシャと動くマシンが好きで、自宅にあったブリキのおもちゃを至近距離から眺めているのが好きだった。だから商船学校の機関科に入学した。メインエンジン、発電機、冷凍機、ボイラー・・・、その全てに興味があって、構造力学、流体力学、熱力学など学ぶことにワクワクした、さらに大型実験水槽での抵抗試験や、大型コンピュータの命令文を考えるのも大好きだった。部活のヨットも力学の集合体にしか見えず、操船時の動作感覚と融合することで力学が命を持つ感覚は快感だった。
整体の学校に行っても、鍼灸学校に行っても、解剖学はカラダというマシンの仕組みを紐解く時間、生理学はその生体制御を知る時間、病理学はカラダマシンのバグと故障を学ぶ時間としか感じなかった。
骨をどのように並べた姿勢にすれば構造力学的に優れているのか、脳は弱電制御、神経は電気系統、筋肉はエネルギーを仕事に変える部品・・・。そこから、骨格というフレームを、筋肉がどのように動かしてスポーツに変換するのか、投球が上手い人はカラダというマシンをどんなギミックで動かしているのかと、カラダマシンへの興味がどんどん深くなっていった。
だから整体を仕事にしているときでも、構造力学的に優れた姿勢を教えたり、各部にかかる応力集中(おうりょくしゅうちゅう※)を減らす方法を教えたり、もっと高いパフォーマンスを生むための動作フォームや動作手順を思うままに教えまくった。
そのときフィギュアスケートをしている中学生選手が抱えていた腰痛を治したところ、頼まれてもないのに勝手に教えていた動作指導だけを継続して仕事にしてもらえないかと依頼されたのをきっかけに、スポーツトレーナーという肩書きを付けることにした。
カラダのバネの仕組みを大発見!(自分的にです)
スキーは趣味になっていたが、上達は壁にぶち当たっていた。
運動生理学から学ぶと筋肉の作用の考え方は3種類。それに当てはめてスキーのギミックを考えて試したが上手くいかなかった。
筋肉の3作用、縮める、維持する、伸ばしていくの3種類をどう応用しても、自分のスキーはとんと上達しない。
外見を一流選手から完璧にコピーして、教科書通りの筋肉の作用を組み込んだ理屈上は完璧のはずなのに、動きが遅れるうえに、固くぎこちない。それを追求しようとするがあまり、とうとう、初心者コースでもエッジを引っかけて転倒する始末だ。
スポーツトレーナーとしても同じ壁に直面した。生徒の伸びが、同じ理由で止まってしまったのだ。思い返せば、鍼灸学校の投球練習でもこの壁が立ちふさがっていた。教わったことを組み合わせただけでは上達に上限があったのだ。
もがきにもがいた末、2003年ひとつの大発見!(自分的にです)をした。
いつものようにスポーツの動きを考えながら縄跳びのようにピョンピョンと跳ねていたときのこと。
「あれ?オレ、足首、動かしてないじゃん!?」と気づいたのだ。
鏡で見れば、足首は曲がったり伸びたりしているのだが、意識的には足首の角度を止めているだけなのだ。
「動かしていないのに、動いている・・・!?」
根っからのマシン好きだから、そこで次のアイデアがすぐに思いついた。
「ってことは、筋肉はもしかして弾性体?」
「だったらバネの反発係数を下げれば、動作のテンポが遅くなるはずじゃん!」
すぐにやってみた。
「・・・やっぱり!(微笑)」
「ってことは、反発係数を高くすれば、テンポが速くなるに違いない」
「ほーら、やっぱりそうだ」
マシン好きの脳内でスパスパと連想ゲームが始まった。
「てことは、投球は、腕、肩、ボディなどのパーツを弾性体にさせて揺り動かしてるってことか!」
「ギターは肩、肘、手首と、末端に行くほど反発係数が下がっていくような弾性体にして揺り動かせば、釣竿を揺するかのようにストロークできるぞ!」
「え”?待てよ、これが、スポーツが上手いってことなのか?」
これが自然にできている人がスポーツ万能で、そうじゃない人は、いくら筋力をつけても上手くなら無い。
・・・だから、ボディービルダーはスポーツが下手(一般論です)。
わお!
バネ動作は、一番最初に身につけるべき能力じゃないか。
「プライマリーモーション」と名付けて、みんなに伝えなきゃ!!
だってこれを知らないまま、生まれつきスポーツが下手と思わされている人を救ってあげられるんだから。
パフォーマンス、スタミナ、しなやか、パワフル。バネの動きで全部身につく!
プライマリーモーションの実験のためにスキーに行った。
コブ斜面を横切るとき、姿勢が沈んでしまわない最小限の力を維持すれば、オフロードバイクのサスペンションのように脚が勝手に曲げ伸ばしされて、コブを舐めていくように移動するはずだ。
「大腿四頭筋、切れちゃうかな?」
「大丈夫かな?」
予測では安全なのだが、大腿四頭筋が切れそうで怖かったのだ(運動音痴あるある)。
恐る恐る滑り始めてみると、今まで全く感じたことがない感覚がした。全くコブに跳ね上げられることなくハイスピードでも安定していた。
にわかには信じられないのでビデオ撮ってもらい確認した。
姿勢が沈んでしまわない最小限の力で脚を止めているだけなのに、コブ斜面を横切る自分の脚が、オフロードバイクのサスペンションのように、長いストロークでコブを見事に吸収しているじゃないか!。更にスピードを上げたり、コブの中で大きなターンを描いたりしてみたが、動きの破綻は全く起きなかった。
この感動を伸び悩んでいる全てのスポーツマンに伝えるために「ゴム筋肉・バネ動作」を、フィギュアスケート、ゴルフ、サッカー、ラグビー、陸上、野球などに応用指導していった。
スポーツ指導に競技経験は必要ありません
2008年のフィギュアスケートジュニア選手権大会で、トレーニングを担当していた、無良崇人、水津瑠美の2人がジュニアチャンピオンに輝いた。
この頃からメディアにも取り上げられ始める。
筋肉を高反発ゴムに変える(健康ジャーナル社)を出版。 ゴルフダイジェスト誌一年間連載スタート。バネトレDVD(野球編:リアルスタイル)発売。常識外れの+50Y宣言(ゴルフダイジェスト社/JAL国内線、国際線にて放映)。 全日本弓道連盟の中央研修会での講演、 板橋区体育協会、海老名市体育協会で講演などなど・・・
のちに、プライマリーモーションからトレーニングに特化した「バネトレ®」
筋肉の水分に着目して、トレーニングせずに筋力アップを実現する「KENZOまん」など
アイテムを増やしながら
順天堂大学駅伝部へのトレーニング指導、高桑整形外科永山クリニックへのリハビリ指導、運動音痴を解消したい人から、スポーツ上達の近道を探る小中高大の選手、プロや実業団のトップアスリート、故障せずにスポーツを楽しみ続けたい高齢者にも指導の幅が広がっている。
スポーツ応用力学へ
2021年、全ての原点に戻って、「スポーツ応用力学」をリリース。
スポーツ指導に競技経験は必要ありません。必要なのは、だれが、いつ、どこでやっても必ず同じ結果になる「力学の法則」を正しくスポーツの動作に変換することなんです。「スポーツ応用力学」は、簡単でわかりやすく、楽しみながら学び進めていくうちに、複雑なスポーツ動作も一目でわかるようになっていきます。
あなた自身のスポーツを伸ばすためにも、誰かのスポーツを伸ばすためにも、「絶対」という基準を持ったスポーツの考え方をあなたも体験してください。